
先日、甲府で城谷歩さんによる「甲州怪談語り その弍」を聴かせていただいた。季節は1月。
つまり、私の怪談噺の初体験は冬真っ盛りの時期だった。
今回は打って変わって夏本番。怪談にとって旬である。
よく考えると、怪談に夏も冬もない気がするが、それでも怪談と言えば夏、という通念がまかり通っている。それも、暑さの中に涼を求めたい人の需要の生んだ文化なのだろう。
暑さにゆだる身体へ芯から涼を吹き込み、怖気を震わせ、心胆を寒からしめる技。
今回、私は酷暑にゆだる体を芯からぞくりとさせられた。それも何度も。
流石の技だと思う。
興味が湧いたので、これを機に暑い中で寒気が起こるのはなぜなのかを調べたくらいだ。
調べたところでは、人は恐怖や不安の感情が引き起こされると交感神経が活発になるそうだ。それは緊張による動悸の発作と同じメカニズムだが、同時に、血流も盛んになり、体温が上がる。それによって外気との温度差を感じるため、それが寒さとして知覚されるのが、悪寒の原因らしい。
風邪の際に症状として現れる悪寒も同じ原因らしい。
つまり、怪談とは、恐怖や不安の感情を呼び起こし、寒気をもたらすものだそうだ。怪談が夏の涼を呼び起こす理由として納得できる。
それこそが城谷歩さんをはじめとする怪談師たちの技なのだろう。
そういえばホラー小説の帝王ことスティーブン・キング氏の小説をかなり読んできたが、「IT」を読んだ際にもなんとも怖気を震わされたことを思い出した。
それを受け、さらに掘り下げて考えてみた。
なぜ怪談噺は、自分の身に起きたことではないにもかかわらず、恐怖や不安の感情が湧き上がるのか。
それは、日常生活を生きることへの根源的な不安があるからだろうと思う。
ドイツの哲学者であるハイデガーは、かつて不安について次のような説を唱えた。
日常の当たり前が機能せず、自らの属する世界への意味が奪い取られた瞬間を不安とするのなら、日常の当たり前とは、人が生きるために必要な装置である。
つまり、人は死への不安と共に、日常の当たり前に慣れ親しむことで、日常に埋没する存在である、と。
ところがそこに怪談のような、日常とあまりにも違う不条理が語られると、それが自分の身に襲い掛からないと頭では分かっていても、今の自分が慣れ親しんでいる現実が偽りのものではないか、と恐れと不安を感じる。
そして、馴れ合いの現実ではなく、本来の自分に直面させられる不安が湧き起こる。
それが荒唐無稽なサイエンス・フィクションのような話であれば、自分には関係ないと思い込んで、怖さを感じないかもしれない。
ところが、語りの内容が伝聞という形をとると、途端に自分の日常と噺の内容がつながる。
例えば今回のように、城谷さんが縁者から聞いた話、という形をとると、より現実味を帯びて話の内容が自分たちの日常でも起こりうる話として身近になる。
聞いている私たちの日常に通じる世界を、語りだけで構築する。そして、私たち観客それぞれが抱く主観的な世界を、舞台上で一つの世界の中につなげてしまう。
今回も携帯電話やmixiといった、慣れ親しんだガジェットで私たちの日常と怪異の世界の扉をつなげてくださった。そして少しずつその世界が歪む様相を見せることで、私たちは城谷さんの術中に落とされるのである。
そこで語られる物語が、現実の体をなしながら、どこかが少しずつ歪み、何かが少しずつずれた怪異が語られると、私たちの慣れ親しんだ現実が偽りのものではないかという不安に苛まれる。
そして、交感神経が刺激され、悪寒を感じる。
これは本当に凄い技術だと思う。
人類が今までの歴史で営々と築き上げてきた理性とは、つまりは科学の顔をした理論である。そして、実験とエビデンスによって入念に織り上げられた常識である。
今や、科学によってお化けや妖怪に理由は与えられ、論理の網に組み込まれてしまった。
ところが、いまだに人類は感情の世界では論理の成り立たない恐怖を覚えている。
例えば身の毛がよだつ音はないだろうか?
私はお風呂場の発泡スチロールのマットのキュッキュッする音が苦手である。他の例では、黒板を爪をひっかく時の”キーッ”という音に怖気を振るう人も多い。
あれは一説によれば、人間の祖先がかつて木の上で生活していた頃から受け継がれた本能に由来するという。要するに危機を察知する本能に基づいた反応だとされている。
結局、人間は理性と言う鎧で、現実の不条理から身を守ろうとしてきたが、実は鎧の裏側にある感情においては、まだ恐れを感じている生き物なのだ。
もともと人間は空間の三次元と時間を論理的に扱うことで生きながらえて進化してきた。だが、実は物理学では次元とはもっと多種多様に存在する概念である。しかし、人の脳は、三次元空間と時間の概念を知覚するように進化してきた。つまり、私たちが感じている現実など、膨大な現実のほんの一部分だけもしれないのだ。
最近、それを感じさせる出来事が私たちの社会を侵食している。AIの進化だ。
今の進化したAIは膨大なデータを集めることで、最先端のエンジニアでさえ判断過程を説明できない形で、新たな知能を獲得しつつある。
皮肉にも科学的エビデンスによって守られてきたはずの人類が、科学の力によって人類の理屈の向こう側にある世界への扉が開かれつつあるのだ。
つまり、人間が理論的に想像している三次元空間と時間の枠組みだけでは知覚できない「何かの世界」があること。今やその事実を受け入れざるを得ない事態になりつつある。
そう考えると、怪談のような人間の知覚の外に不条理な恐れを想起させる技は、AIが浸透した時代にあっても、有用なのかもしれない。
今回、城谷歩さんによって披露された
「午後8時」
「みやびちゃん」
「再会」
の三噺は、どれも私たちの安住しているはずの日常の延長を描いている。そして、日常の延長であるはずなのに、裏側に不穏な混沌を孕んでいるかもしれない不安を搔き立てている。私たちが慣れ親しんでいる現実が、頼りにならない不安。それを城谷さんの語りによって一層かき乱され、それゆえに覚えた戦慄だったのだと思う。
暑さの中に、寒気を誘う技。堪能させていただいた。
城谷さん、嫁谷さん、ご来場の皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。
2026/8/10 ウェスタ川越 2階 小ホール 17時開演
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