開戦前夜

映画を観、思いを致す

戦前、戦中、戦後を問わず、第二次大戦に関する本は今まで優に100冊は読んできたと思う。

ただ、多くの識者が解明しようとしてきたにもかかわらず、いまだに明らかになっていないことがある。それは、日本の開戦責任の所在を明らかにすることだ。言い換えると、戦争犯罪者とし誰が裁かれるべきかは、今なお明確になっていない。

もちろん、戦後の極東国際裁判において、7名のA級戦犯が絞首刑の判決を受けている。国際法上の解釈には異論があるかもしれないが、裁判という形式ではひとまず決着がついている。
また、戦後すぐに天皇陛下がGHQのマッカーサー元帥に面会に行き、『全責任は私が取る』と述べられたという証言もある。それによって感銘を受けたマッカーサー元帥が対日政策を改めたことで、苛烈な戦後政策が回避され、天皇制が守られたとする見方もある。
つまり、A級戦犯の7名と昭和天皇によって、戦争責任についての話題には一旦決着がついている。

だが、日本が開戦に至った責任の所在をめぐる議論には、実は決着がついていない。いまだに突き止められていないし、これからもわからないだろう。
極東国際裁判において連合国側は、戦争犯罪を訴追するための起訴内容を検討した。その結果、日本には最終的な決断を出せる人がいなかった事実に驚愕したとの挿話が伝えられている。

わが国では責任の所在がなぜ不明確なのだろうか。そもそも誰が最終判断を下し、誰が戦争遂行の最終決定を下したのか。昭和天皇が臨席した御前会議で宣戦布告を決めた東條内閣の閣僚が責任を負うべきなのか。

わが国の文化的な特徴を表す言葉に「和をもって尊しとなす」がある。十七条憲法に記された飛鳥時代から伝わるものだ。その言葉の通り、和を尊んだがゆえに、責任の所在を曖昧にする文化がわが国にはある。
それは欧米から見れば特異な価値観として、極東国際軍事裁判において取り沙汰された。

そもそも、当時のわが国がそこまで先行きを予測できないほど無能だったのか。
国力に大きな差があったアメリカに戦争を仕掛けようと判断したことに疑問はなかったのか。後世に生きる私たちからすれば、そうした疑問があって当然だ。

そうした問題に1つの仮説を与えたのが、猪瀬直樹氏による「昭和16年夏の敗戦」である。
本作の原案となったのが、この本である。

本作では、陸軍が設立した総力戦研究所に集められた所員たちによる試算は、日本は必ずアメリカに負けるとの結論に至っていた。その結論に至るまでの侃侃諤諤の議論と、その結論を近衛内閣に提出しながら、それにもかかわらず、日本が無謀な戦争に突き進んでしまった経緯を描いている。

なぜ日本は論理の帰結として敗戦を予測しながら、無謀な戦争に進んでしまったのか。
本作は、その問いに答えを出そうと試みている。そして、日本文化の根源にある、組織における責任の所在についての問題を解き明かそうとしている。

本作で描かれた所長の描き方など、事実とは違う演出もあるようだ。が、それは一旦置いておく。本作で國村隼氏が演じた総力戦研究所の所長のような態度は、当時の陸軍の体制の象徴を演出したい意図があったことは理解する。史実では何人もの所長が交代していたが、複数の所長を本作に登場させるのは煩雑になると判断したのであろう。

本作の肝は、東條英機陸将の描き方にある。
日米開戦当時の首相でもあることから、東條英機氏が、日本の戦争責任を代表する人物として見なされることが多い。だが、さまざまな資料からは、東條英機氏でも他の誰でもあの戦争は防げなかったという論も見かける。

もちろん、戦争責任を取り上げるなら、北村有起哉さんが演じた近衛文麿首相も外せない。総力戦研究所の職員たちの案を真剣に取り上げようとせず、無気力で無責任な姿は、A級戦犯としての責任の重さを印象づけている。本作での演技とは別に、A級戦犯として責任を追及されてしかるべきだろう。

むしろ、本作で佐藤浩市さんが演じる東條英機氏の姿にこそ注目すべきだ。そして、佐藤浩市さんが演じる東條英機氏が、追い詰められ吐露する本音こそが、日本を戦争へと突き進ませた構造を現しているといえないだろうか。ひとたび火が付くと、社会全体が同調してしまうほど、世論の力は強かった。

そして、一度振りあげた拳の下ろし方が苦手な国民性。前言撤回が苦手で、前例踏襲を得意とする官僚制。
それらの心理は「座して死を待つよりも、死中に活路を求めるべし」の発想に表れている。

これが当時の日本を戦争に進ませた「空気」ではないか。
もし失敗したらどうなるか。本作にも何度か敗戦後の廃墟のイメージが出てくる。そのイメージは、開戦前のほとんどの国民にとって、敗北主義的な発想と見なされ、口にすれば非国民として糾弾されかねないものだったのだろう。

それよりも日清日露の両戦役から始まった、先人たちが積み上げてきた満州の権益を失うことへの負い目。それは祖先を敬う日本人の心性にとって耐え難いものがあったと思う。
そこに前例踏襲の圧力と前言撤回できない弱さが積み重なり、身動きできなくなったのが日本が開戦に至った理由だろう。

そうした世論を抑え、政府・軍・国民・メディアを戦争回避に導けるだけのリーダーシップの持ち主がいないことも大きな要因だったはずだ。統帥権の干犯を恐れて政府も手が出せず、昭和天皇も二・二六事件の際に強く出過ぎた反省から手を出せず。
まるで、三すくみの例のように、誰もが身動きできぬうちに、事態の悪化を止めようとする勇気ある者も現れず、日本は開戦に至ってしまった。

本作のエンドロールでは、天皇陛下による玉音放送が流れる。結局、聖断によって戦争を止めるしかなかったのだと思う。
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」とは、開戦を決める御前会議において昭和天皇が詠まれた歌である。素直に受け取れば、この歌は戦争反対を訴えているように読める。ところがそれが捻じ曲げられてしまった経緯は、かつて読んだ『昭和天皇「よもの海」の謎』に書かれている。

昭和天皇の婉曲な意思を捻じ曲げて開戦に持ち込んたメディアにも責任があるだろうが、私は、祖父の明治天皇の意思ではなく、昭和天皇がご自身で避戦の意思を毅然と示されるべきだったと思う。

もちろん、それは後世に生まれた私の無邪気な感想でしかなく、当時の空気の中で私が何かできたとは思えない。

私にできることは、そうした反省を日々の経営に活かすことだけである。

なお、本作には私の弟がエキストラで出演し、エンドクレジットにも名前が出ている。
このことについては、note「9月14日 続けると評価される」にも記しているため、この場では深くは触れない。

‘2026/9/12 YEBISU GARDEN CINEMA

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