鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来

映画を観、思いを致す

家族とそろって本作を鑑賞した。とても楽しめた。

通常、映画を劇場で観るときは、そのストーリー展開を知らずに観ることが多い。しかし、本作については事前に展開を知っていた。
なぜなら漫画版を読んでいたためだ。(本作を観た後、漫画を読み返してみると、コミックスの16巻から18巻あたりが描かれていたことを確認した。)

それでも楽しめたのは、映像の力が大きい。
もちろん、原作のメッセージ性が良かったことは前提だが、圧倒的な映像表現が原作の魅力を何倍にも増幅させていた。

「メディアミックス」という言葉には、原作をネタに二次制作物で甘い汁を吸うだけという、ネガティブな印象もつきまとう。

しかし本来的には、メディアミックスとは原作の魅力を別の視覚・視点によって損なわず、拡張することだろう。

本作は原作のストーリーをほぼ忠実に辿っている。映像化にあたって余計な解釈は加えていない。これはまず良い点だ。
余計な解釈をしない代わりに、圧倒的な奥行きを持つ無限城の描写が、これでもかと迫力たっぷりに映されている。
これは原作漫画では決して表現できない、映像ならではの力だ。
最新の情報技術も活用しながら、見事な視覚表現で世界観を深く広く体験させてくれた。本作を作り上げたアニメーターの方々の努力には本当に感銘を受ける。

本作を観た後日、とある方と本作について語る機会があった。その方は二度、一度目は通常のスクリーン、二度目はIMAXで観たらしい。IMAXの方が映像体験が圧倒的で、全く通常スクリーンとは違ったと仰っておられた。
私は残念ながら通常スクリーンでしか見ていないが、次に観るならIMAXを選びたい。

その方が語った通り、私が通常スクリーンでさえ感じた圧倒的な映像体験。これが得られることこそ、本作の最大の意義なのではないか。
原作をはるかに凌駕した世界観への没入。メディアミックスは、そうした体験こそが本質であるべきだと思う。

さて、先ほど「原作のメッセージ性が良い」と述べた。いくら映像が素晴らしくても、原作の力なくしてここまで人を惹きつける作品にはならない。
本作の原作の魅力についても触れておきたい。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編レビュー でも以前に書いたが、原作はキャラクター造形の深さが魅力である。

元来、人物を深く描くのが得意なのは小説ではないか?と思う。しかし本作のような、分かりやすい「鬼殺隊 vs 鬼」といった単純な構造の小説はすぐには思い浮かばない。
すぐ思いつくのは、シャーロック・ホームズ vs モリアーティ教授や、明智小五郎 vs 怪人二十面相の構図だが、両者の敵役がそこまで深く描写されていただろうか?
二人の敵役が悪事に走った理由や生い立ちについて、作中で掘り下げて描かれていた記憶は思い浮かばない。

そもそも小説は、本作のようなわかりやすい善悪二元論は避けてきた。敵と味方の対立は、せいぜいミステリーだけで扱われ、純文学ではほぼ皆無だと思う。最近のミステリーでも昔ほど単純な二元論では読者を引きつけられなくなっている。
過去から連綿と人物造形を積み上げるのは小説の得意領域だが、本作の原作のような分かりやすさはない。

映画や漫画はどうだろう。
これらのメディアでは、敵は主人公の前に立ちふさがって圧倒的な力で試練を与える存在として描かれる。しかし、敵の背景にはあまり触れないことが多かった。
本来的に敵とは試練の象徴であり、背景や生い立ちが描かれなくても十分だったからだ。
これまでの多くの映画・漫画もそうだった。もちろん例外はある。『スター・ウォーズ』のダースベイダーは、生い立ちが別シリーズで掘り下げられた。有名な敵キャラなら他にも見つかるはずだ。

本作や原作では、鬼が戦いに敗れ、塵となって散ずる直前に、その生い立ちや、なぜ人間から鬼になったのかがきちんと描かれる。
鬼として悪逆の限りを尽くすキャラをそれだけで終わらせない。そこにこそ、本作が多くの支持を集める理由がある。

主要な敵キャラについては、生い立ちがほぼすべて描かれている。
これは推測だが、著者は時間さえ許せば瞬殺される小物の鬼にも一つ一つ物語を与えたかったはずだ。
こうした敵にも悲しみや生い立ちがあり、人間として扱っている。この姿勢が新たな観客を呼び、いままで敵の背景を丁寧に描く作品に接してこなかった人たちが強い共感と感動を覚え、それがさらに新たな支持を生み拡大した――それが『鬼滅の刃』の社会現象だと言える。

人間は本来弱い存在である。その弱さは生まれ持った資質だけでなく、環境に大きく左右される。

では、最後まで弱さのなかで耐え、ひっそり死んでいく人生は美しいのか。
その問いは重要だ。
何もしないで平穏をよしとするのも人の自由だ。他人にどうこう言われる筋合いはないし、納得して静かに死ねばそれも立派な生だ。
実際、多くの人々は社会と折り合いをつけ、ありのままの自分の人生と弱さを受け入れ、幕を閉じていく。

一方、少しでも人生を良くしようとする姿勢も大切だ。
自分や環境の弱さを一発逆転させたいと願うのは、誰にでもある。私にももちろんある。

そんな弱さは、自らの心の中に根本原因がある。環境的な要因だけでなく、自分の弱さにも正面から向き合い、克服しようとする人は成長する。
しかし、原因を改善し、努力して外面の成功を収められるのは一握りの人だけだ。
自発的に努力を続けるのは難しく、努力した末にどうにもならないこともある。努力の末、自分の弱さを受け入れるのが人生の締めくくりとしてあるべき姿なのかもしれない。

しかし、その我慢ができない人もいる。極端な手段で一発逆転を狙い、犯罪に走ることもある。
そして「人でなし」になる。人が人としての道を踏み外し「鬼」になる。
人生を逆転したいがために犯罪に走る人の弱さ――それもまた人間の一面だ。

現代の私たちは、常に他人と比較する情報にあふれている。劣等感や弱さに苦しみ、今の状況を打開したい誘惑は多い。
誰もが「脇役で終わりたくない」「社会に認められたい」「存在意義を持ちたい」といった思いと誘惑に葛藤している。
その誘惑に負けて人でなし――つまり鬼となったのが本作の敵キャラ達だが、最初から鬼だったわけではない。
人間としての弱さを克服できず、鬼になった。
その過程こそが、現代の社会で私たちも思い当たる人間の弱さ。だからこそ原作や本作は多くの共感を呼ぶのだろう。

もし敵の鬼への深い描写がなければ、単なる鬼殺隊と鬼との戦いに終始し、柱の能力や鬼の技を誇示し駆使しあうだけのバトル漫画で終わっていたはず。
しかし本作はそれだけに終わらず、鬼の人間性、弱さや愚かさもきちんと描いている。
その愚かさに対峙できず、目の前の誘惑に負けた鬼の哀れさこそが、本作の共感を呼び支持を集めている。

それは私たち全員が持つ「人間としての弱さ」とも重なり、だからこそこれだけの支持と共感を得ているのだろう。

‘2025/7/24 イオンシネマ新百合ヶ丘

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