クリスマスケーキ・キャロル

舞台を観、想いを致す

久しぶりの朗読劇は、なんとうちの会社が興行主である。そのため、会社としてのブログに書くべきかとも考えたが、本作の感想は、引き続き私自身のブログに記そうと思う。

とは言え、なぜうちの会社が演劇を手がけるのかは、ここに書いておいた方が良いかもしれない。そもそも本作は、11月21日に会社の新代表になった妻が、役員としての活動の傍ら、個人で活動していた「ハレ・プロモーション」で企画していた。つまり、個人事業主としての活動である。
「ハレ・プロモーション」は地域創生や物販、さらにこうしたイベント興行も手がけている。妻はITに明るくないため、IT会社であるアクアビットとは一線を画した活動がしたいとの思いがあったのだろう。
ところが、個人事業主から法人化すると思いきや、登記に手間取ってしまい、なかなか形にならない。事務仕事や手続きが苦手な妻の弱点が出た形だ。

いうまでもなく、個人事業主であっても公演は主催できる。
ただ、登記もできない中途半端な状態は見るに見かねていた。また、私も妻の関心が分散し、力を発揮できていないことも前から気になっていた。そこで、妻に代表を譲るとともに、アクアビットに妻の活動の軸を置いてもらい、その中に「ハレ・プロモーション」の事業も含めたらどうかと提案した。妻が会社の代表になることで、IT事業と「ハレ・プロモーション」も管轄できる。この条件なら妻も乗ると踏んだ上での提案である。
妻はその提案を受け入れ、登記上、会社の代表に就いたのは、本作の公演の九日前だ。と同時に、妻が個人事業として準備を進めていた本作の企画も会社の管轄になったわけだ。

なので、うちの会社が興行主とは言え、前代表の私は本作の準備にはほぼ関わっていない。妻が企画していたものであり、それは妻が代表になった今でも変わらない。演劇の世界は、妻も宝塚の代表を務めていた経験や、日舞の名取として、シャンソン歌手として、若い頃には舞台に立った経験を持っているので、ある程度は内情を知っている。何よりも本人にこうした世界への思いが強いことは理解しているので、私からは特に何も言わなかった。

今回は一日限りの公演である。午前の部と午後の部のそれぞれ一度限り。劇場は、西武新宿線の新井薬師前駅近くにある「中野シアターかざあな」。狭い階段を地下に降りると現れる小劇場だ。
こうした小劇場があるからこそ、舞台人は腕試しもできるし、登竜門をくぐることができる。新たに舞台関係に飛び込むうちの会社としても、まずは「中野シアターかざあな」のような小劇場から地道に始めていくべきだ。

今回、本作の台本は最初から書き下ろしていただいた。また、その演出を妻が担うことで、演出家としてのデビューまで果たした。
本作は、企画から演目そのものまで含めて携わった初めての機会ではないだろうか。もちろん、うちの会社にとっても初の試みであることは言うまでもない。

私は朗読劇は何回か観客として観劇したことがある。台本を読みながら演じることができるため、演者さんにとってはセリフを覚える負担が少ないことは想像がつく。
また、観客は台本を買い求めることもできる。そのため、観終わってすぐに物語の世界を追体験することが可能だ。

ということは、朗読劇は脚本の質こそが全てを左右する。そう言っても過言ではない。

今回、その朗読を担当してくださったのは奥山樹生さん。脚本家、演出、演者として幅広く活動しておられる新進気鋭の舞台人である。
奥山さんは高校時代に私の長女と同じクラスで、当時から演劇に打ち込み、多摩美大に進んだ経歴を持っておられる。妻は高校生の頃から奥山さんの関わる舞台を長女と観に行き、応援していた。そのいきさつから、今回の脚本の担当としてお願いしたそうだ。

私も何度かオンラインで打ち合わせをしたり、演出の練習をしているのを脇で見ていた。が、演目の内容に関してはほぼ知らずにいた。今回、午前の部に観客として参加して、初めて内容を知った。

本作のあらすじは告知サイトによると、このような内容だ。
阿部ニイナはケーキ屋に勤めながらも、クリスマスが大嫌い。クリスマスイブの夜、作ったケーキが突然喋り出し、自らを『ケーキさん』と名乗る。ニイナはケーキさんの手に導かれ、現在・過去・未来の“クリスマス”への旅に出ることに。ニイナは同僚親子の事情や自身の過去を通して、自分にとっての“クリスマス”と向き合うことになる…。

観終わって、「一日限りの公演で終わるのはもったいない」と思った。この脚本を磨き、落語の演目のように何度も公演にかけ、ブラッシュアップしていけば、もっともっと良くなるのではないかと思った。つまり、脚本が良かったのだ。
本作はタイトルにもあるように『クリスマス・キャロル』をモチーフにしている。『クリスマス・キャロル』は英国の作家チャールズ・ディケンズによる有名な小説であり、強欲で冷酷なスクルージが、クリスマスイブから翌朝にかけて精霊たちに見せられた悲惨な行く末によって改心し、クリスマスに前向きになる話である。

本作は「クリスマス」という大きな概念ではなく、より具体的な対象、つまりクリスマスケーキに焦点を当てたところが面白い。海外の場合、クリスマスは生活や文化に溶け込んでいて、概念の枠が広かろうと皆が実感できる。
ただ、わが国はご存じの通り、クリスマスは一大イベントではあるものの、その中身は経済的な影響が強く、文化や生活に溶け込んでいるとは言い難い。クリスマスとは、イブに恋人たちが会う機会であり、ケーキを食べたり、子どもたちにとってはサンタクロースがお土産をくれる楽しみであり、家庭によっては七面鳥を食べたりする機会である。そのため、わが国では「クリスマスの奇跡」と言われてもあまり伝わらない。そこで、より分かりやすくケーキを奇跡の対象とし、観客にとって共感しやすい話に翻案している。

また、この脚本が良いのは、クリスマスと言えばみんなで楽しくケーキを食べるイベントを示すとともに、裏面として「一人の寂しいケーキ」もあり得ることをすぐに想像させる点だ。
子どもが求める家族との触れ合い。親との交わり。 それが満たされなかった時、人は屈託を抱える。
そのテーマが最も仮託しやすいのが一年に一度のクリスマスケーキである。対象をより具体的な焦点に合わせ、観客のイメージが湧きやすくしたことはお見事だと思った。

この作品の中では、クリスマスケーキが断絶を浮き彫りにするテーマとなっている。この忙しない時代において、満たされない子どもたちが毎年生み出されている。子どもたちが苦しむ姿は社会の歪みである。
どうしたらその歪みを正せるのかは誰にも分からない。できるのは、相手の立場を想像することだけだ。自分もつらい。人もつらい。誰もがつらい。
自分のつらさを次の世代の人に丸投げしてしまうのか。それとも想像力を働かせて、変えようとするのか。社会とは仕組みで動いているが、その仕組みを変えるきっかけは想像力にある。
ディケンズが描いた19世紀のイギリスも、パックス・ブリタニカによる空前の繁栄の一方で、まだまだ労働環境も庶民の暮らしも乱雑で荒れていた。今のわが国でも、繁栄から国勢が下り坂になるとともに、社会の断絶が浮き彫りになっている。

本作には「かわいそう」という言葉の意味を問いかけるシーンがある。この言葉の取り扱いは要注意だ。簡単に口に出して処理したつもりになっていないだろうか。
ただ「かわいそう」と思うことで、その場の決着をつけた気になっていないだろうか。口にするだけでなく、より相手の立場や状況に思いを致すこと。それを意識するだけで、年の終わりに反省し、年明けからの改善につながる機会となる。そんなメッセージと受け止めた。

私が前に「ブラッシュアップすれば」と書いたのは、まさにこのセリフ上の「かわいそう」の部分がまだまだ変わっていくし、演者によって演出によって変わっていくのではないかと思ったからだ。これは、感想を書く側にとって指摘するのは簡単だが、脚本や演出でも解釈が分かれる点だと思う。逆にいうと、この解釈の幅が、本作をより輝かせる可能性もあると思った。

そんな朗読劇の脚本も良かったが、演者の皆さんも素晴らしかった。言うまでもなく、ただ台本を棒読みで読まれては興ざめも良いところだ。しかし、
#成紗舞
#奥山樹生
#月宮はる
#生沼詩想音
の皆さんが、それぞれの役割を複数キャストで掛け持ちしながら演じていただき、とても4人の演者だけとは思えない広がりが生まれていた。
過去、現在、未来だけでなく、子どもと大人、男性と女性を自在に演じ分けられるのはさすが。

また、終わった後の演者さんたち四人によるトークショーも良かった。
それぞれの演者さんが台本を見て、どのように解釈し、どのように演じようと思ったか。そうした演者としての工夫がトークショーでの発言によって知れたことは、人前で講演や研修講師を務める機会の多い私自身にも参考になった。

まさに、そうした学びの効果こそ、うちの会社が演劇や舞台を手がける効果として期待していたところだからだ。

次回以降も、もし本作が再演されれば、いろんな役者さんが何度も演じる作品に育ち、「クリスマスケーキ・キャロルが来たら年末だなぁ、師走やなぁ」と思えるような日が来ると良いと思った。

‘2025/11/30 中野シアターかざあな 10時半開演
https://t.livepocket.jp/e/rsea-

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